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松原内湖大洞弁天船着き場(丸子船着)

新近江名所図会

新近江名所圖会 第179回 松原内湖の船着き場

彦根市
松原内湖大洞弁天船着き場(丸子船着)
松原内湖大洞弁天船着き場(丸子船着)

かつて、琵琶湖には東国や北陸からの物資を京都に運ぶ天然の運河としての役割がありました。琵琶湖水運は日本の物流のなかで大きな位置を占めていたのです。ただし、琵琶湖は閉塞水域であって、海との行き来がないために、船は独自の発展を遂げ、「丸子(まるこ)船」という輸送船を登場させます。100石積み程度の大きさの船が多かったのですが、中には400石積みクラスの船もありました。これは瀬戸内海を行き来していた輸送船に匹敵する大きさです。
この丸子船、昭和まで琵琶湖で活躍していたのですが、今はもう航行する姿を見ることはできません。その雄姿は古写真などからうかがうだけなのですが、ベストショットの一つに右の写真があります。場所は彦根城の北にかつて存在していた松原内湖のほとりです。石で護岸された船着き場に丸子船が着岸しています。松原内湖は内湖であるため、水深がきわめて浅いのですが、そんな場所に丸子船が横付けされているのです。実は、丸子船とは淡水湖で水深の浅い琵琶湖を自由に航行するための工夫が随所にみることができる船なのです。たとえば、「笠木」と呼ばれる鳥居のようなものが船尾に取り付けられており、浅い場所では邪魔になる舵を引き上げられるようになっています。

松原内湖絵葉書(汽車通過)
松原内湖絵葉書(汽車通過)

琵琶湖水運の花形である丸子船を消滅に追いやったのは鉄道輸送です。北陸線・東海道線が開通すると、桶の底に穴を開けたかのように琵琶湖水運で運ばれる物資は減っていきました。そんな丸子船と東海道線を走る汽車を同じ場所に見ることのできるショットが左の2枚めの写真です。

信長の大船
信長の大船

かつて松原内湖には大きな丸子船も出入りしていた様子がわかりましたが、丸子船サイズで驚いていてはいけません。戦国時代に織田信長は巨大な軍艦を造ったのです。長さ54m・幅14mと当時、日本いや世界を見回しても一番大きな船をこの松原内湖で造ったのです。コロンブスが大西洋を渡ったサンタ・マリア号でさえ長さ18mです。信長の軍艦がいかに大きかったかがわかるでしょう。残念ながら、この船については、文献に見られるだけで、絵画資料がなく、具体的な姿はわかっていません。しかし、近年、安土城考古博物館が復元を試み、模型を制作しました。琵琶湖ならではの浅い水深に対応した船底構造、40日足らずという短い製作期間、派手好きな信長の好みを考慮したイメージ復元船です。
旧松原内湖のほとり大洞弁財天の石鳥居の前に先の写真の石垣が今も残っています。信長が大船を造ったのもこのすぐ近くです。昔の写真と、信長の大船の写真を持って現地を訪れてみるのも一興かと思います。

信長の大船設計図
信長の大船設計図
大船の望楼でご満悦の信長
大船の望楼でご満悦の信長


(横田洋三)

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